解 説
吉邉 尚希
盟友がるあん氏の処女作「練馬」の栄えある第一の読者として拝読させて頂いたのはもう半年以上前のことである。何しろこれが初めての小説とは思えないと驚いてしまった。
とにかく冴えないモテない友達もいない居座リスト、そしてメモリストとして極まった二十七歳歳の無職男が悶々とクドクドとクネクネとしつこい位に尊大な卑屈さとユーモアでもって妄想と現実を反復横跳びする様に魅了され、完全に楽しんでいる自分がいた。
グイグイと読めるし思わず吹き出してしまうようなこともあればあるポイントからは続きが気になって止まらなくなってしまうほどのめり込んで一気に読み切ってしまった。
そしてコレを広めねばならぬという使命感さえもってしまった次第だ。
実際こうして本にするに至ることができ、まず一仕事終えたといった心持で安堵しつつ、続いては更に世に伝播していかねばといった所存である。
なぜならこれは彼の物語でもあり、私の物語でもあるのだ。そして引いてはまだ見ぬ誰かのための物語なのだ。そう思ったからに他ならない。
小説の登場人物は主に主人公と美しく揺れる黒髪を持つ女性の二人で極端に少ない。
しかし居座リストとしてミスタードーナツ練馬駅前店やドトールコーヒー練馬駅前店で居座り続ける主人公の周りに座って話しをしているジジイ達、おばさん方、学生さんという統合体など名もない人々の存在や会話が本作を彩る非常に重要な要素である。
主人公は著者本人ではなくあくまで小説の主人公でしかない、というのは著者自身も言うところではあるが著者が筋金入りの居座リスト、メモリストである事はまず間違いなかろう。つまりその筋金入りの居座リストメモリストとして見聞きしたものが如実に反映されたリアリティがそこに拡がっていて、前述の周囲の人々や街並みの姿がありありと感じられるのである。
日々この現代を生き、見て聞いてメモしてきたものが小説の中で生きている。二〇一六年の今この瞬間が小説の中で生きている、この人達を知っている気がするという存在感。これこそが小説として世に産まれ後世に残る必然性と必要性を持ったものなのではないかと思わずにいられないのだ。
彼が「私の生きた証を残しておく」といって残したメモは同時にその瞬間の世界に生きた人たちの証でもあるのだ。
そして主人公は長く美しい黒髪を持つ女性との遭遇から少しずつ変わっていく。しかしそれはあくまできっかけとしてセンセーショナルなものであっただけで恐らく人は誰しも少しずつ変わっていくものなのではないか?変わらないと思えるこの今の自分や周りの世界をあらためて見つめ直し特別なものとして受け止め大事にしたくなる、そんな気付きを与えてくれる作品であったようにも思う。
著者の処女作である本作ももちろんこの瞬間でしかあり得ない存在であり今後産み出される作品はその時々でまた違ったものとなっていくであろう。ゆえに本作をより愛おしく思うとともに今後の作品も楽しみにしたい。
そして私も読み終えた後、早速メモアプリをダウンロードしメモリストとしての一歩を踏み出した次第である。
二〇一六年九月十五日 電車内にてメモしたものを改訂し本書へ寄稿
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